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忘れるためのなぐりがき

短編小説や、映画・アニメの感想を書いています。

「若者と落語」についての、雑な実感

落語超初心者の雑な書き散らしなので、殴ってやって下さい。

変わるのはメディアであり、現場まで足を運ばせる手法である。細分化していく演者たちを、どう現代の観客に紐づけていくか。演者や主催者が現代的な感性をもって、その時代のお客さんにアピールしていくこと、しかも、メディアや時代の空気感の変化のスピードに、どう対応していくかということ(対応しない、という対応も含めて)。これがこれからの落語には、これまで以上に求められていくことになるだろう。

サンキュータツオ「いま、これから―「渋谷らくご」という実験」早稲田大学坪内博士記念演劇博物館『落語とメディア』展図録, p.89

落語は一方に「笑点」を落語と思っている層がいて、一方にマニアックな層がいて、その真ん中の層が割といじめられがちっていうか(笑)。マニアックな層からはお前わかってないなっていわれ、「笑点」の層からは寄席に行っても難しいでしょ、って言われちゃう。

いとうせいこう「落語と私 私と落語」『東京かわら版』2017年1月号, p.3

  ▼寄席にいる時、学生っぽいお客さんで「落語初めて聞きます」みたいな人がいると、「コイツの反応見よ!」ってロックオンして観察するのが密かな愉しみなのだが(やな趣味だなー) 、皆さん色々な反応をしてて、とても面白い。

・看板のピンを見て、「普通の話は面白いけど、博打の話?は、ちょっとよくわかんなかったわー」って言いながら帰ってったお兄さん
・桟敷席でウトウトする彼氏を尻目に、熱心に講談「桂昌院」を聞いていた彼女
・「どう考えてもコイツ落語に興味ないだろ」って外見の男性グループ(黒人っぽい方もいた……)が、昼席をきちんと見たあげく、夜席2組目のホームラン先生を楽しそうに見て、満足気に帰って行った(「そこまで見たなら、夜ももうちょっといようぜ?!」というのも含め、ざわざわした)
・宿屋の富を見た後、スマホで調べものをしながら「一両って、10万なの? ってことは、1000両は1億? 1億って、サラリーマンが一生で稼ぐお金でしょ。うわー、いいなぁ~!!!」って感想を言いあっていた、茶髪のお姉さん2人組
・これが、年齢が少し上になって、社会人っぽい&文系っぽい落ち着いたカップルになると、「何はともあれ、この場のルールに従って鑑賞しましょう」みたいな態度で、とりあえず見続けてくれる(楽しめたかどうかとは別に、帰り際に従業員の目を見て「ありがとうございました」と言える人たち)
・完全な贔屓目だが、喬太郎師匠、白酒師匠、馬石師匠、一之輔師匠の高座は鉄板で、だいたいウケている

▼以下、超個人的な話になるが、私の妹はフィクションに対する読解力については絶望的なところがあり、『ズートピア』のあらすじの理解が限界だと自己申告している他、前に名画座で一緒に見た『スティング』(1973年)は、完全に理解できなかったと言っていた。なので、落語については(恐らく見たことがないはずだが)、「どんなに(あえて)敷居を低くしている芸風の落語」を見たところで、上下切るところで理解が追い付かないんじゃないだろうか、というのは常日頃思っている 。加えて、彼女はきっと「長屋」がわからなくてリタイアするだろう。

▼「渋谷らくご」や『昭和元禄落語心中』は、そのあたり、若い人の中でもフィクションに対する貪欲さが割合強めな人たちをターゲットに絞っており、結果は如実に数字に現れている。シブラクの動員数は高水準で安定していらっしゃいそうだし、今年1月末に行われた「落語心中寄席」は、新宿・浅草・池袋ともに前売りが完売+立ち見も出た(はず)ということも考えると、800人弱はイベントに参加したことに……?

▼「フィクションに対する貪欲さがある若い人」ということでは、最近出会った後輩ちゃん(年は22歳くらい?)が、「前の職場が浅草にあって、何となく浅草に入ったらそこから落語にハマって、志ん生のCDとかをよく聞くんです」っていう子だった。「で、生きている噺家で好きな人は?」と訊いたら、「一朝師匠です。前に一度見て、この人を一生追いかけようと思った。新作落語は、よくわかりません」。

▼手拭と扇子で世界観を表現する……っていう形式は、日頃リッチな視覚エンターテイメントに慣れている目からすれば、最初は物足りなく見えるかもしれない。が、慣れてしまえばいいだけ。それに、たとえ江戸時代の話であっても、ちょっとの前知識さえあればわかるはずなのに……。しかしながら、普通に歩いていて気がつかない程度のちょっとした段差が、バリアフリーの大きな妨害になるように、落語に対するハードルは、私が思っているよりずっと高いんだろう。そもそも、「自分が知らない(≒面白いという確信がない)快楽に、お金を払ってみる」という行為は、懐や心に余裕がない限り、なかなかハードルが高い。これは、落語に限った話ではない。

▼以上のようなことを、ぼんやり雑に考えながら、少し上の世代の言葉を漁っていると、下記のような文言にすぐにぶちあたる。悔しいというか、悲しくなる。私が今、日ごろ触れたり、「落語は……」みたいなことで雑に思い浮かべる高座は、絶対に彼らが見ている落語ではない。

古いひとのCDなんか聴いてネ、「昔の芸人はよかったネー」と思うのヨ。昔の芸人は、ほんとよかったヨ。「昔のひとのことを言うのは...」なんてェのもいるけど。昔の芸人のほうが、上手いし、よかった。でも、寄席に携わる人間としては、いま出てるひとが大事で、いま来るお客さんが大事だから。「あのひとがいればなぁ...」ってことはもう、考えないように考えないように、してるよ。

……荷風が描く下町の路地だって、そこ出身じゃないから、完全には共感できないよ。同じことは、最近『新日本紀行』浅草特集(1968年)、 『新日本紀行ふたたび』浅草特集(2007年)を見比べた時にも、思った。

▼そのうえで、落語の何が、どこが、私たちの世代に必要とされるのか、本当に役に立てるのか(なんだかんだ言って、必要とされてないプレゼントは、有難迷惑で誰も受け取ってはくれないのだ)。その鍵を、昇々さん吉笑さん松之丞さん等、"シブラクに出られている人たち"が握っている気がして、……ってことはつまり、「渋谷らくごのキュレーターであるサンキュータツオさんの落語観以外、まだ何も地図を持ってない」という自覚は、痛いほどある。タツオさんのコピーになっても、色んな意味できっと意味は無い。「何にもならない時間にお金を払うっていう贅沢こそが、大人の遊びである!」、というタテマエみたいな寄席観(しかしながら、実感)が、常に心の片隅にある。

▼以上、こんなクソ生意気で、意味の無い書き散らしとは別に、私は寄席にいる人たちの、PV至上主義みたいなものに一切諂わない高貴さが、大好きだ。