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忘れるためのなぐりがき

短編小説や、映画・アニメの感想を書いています。

雑な感想『バンビ、ゴジラに会う』(1969年):もう、全ての映画は、90秒でいいよ

映画 アニメ

「2016年ベスト映画」みたいなものを書いてもいいんですが(まだ1月だからギリギリセーフなはず!)、昨年見た新旧あらゆる映像作品のなかで最も心に残った作品と、その理由を書き散らしました。作品そのものは90秒ですが、文字数はなんと3000字超です。あと思いっきりネタバレしてます。どうぞご注意下さい。

『バンビ、ゴジラに会う』

 ・一部では超有名らしく、今さら私がドヤ顔で紹介するような作品ではないのですが、たった90秒の作品なので、未見の方は是非ご覧になって下さい。

・見た人おそらく全員が抱くであろう、素朴な疑問
   「なぜ、バンビなの?」
   「バンビは何も悪いことをしていないのに、どうして踏み潰されたの?」
   「テロップは、いったい何が言いたいの?」
   「ただただ後味が悪いんだけど、いったい何がしたかったの?」
 あるいは、
   「特に何も感じないんだけど、これのどこが凄いの?」

 

※以下、「引用しているアニメの内容が間違っている」レベルから、「一般化が乱暴すぎて、個別の作品解釈には適用できない」レベルまで何かと批判されることの多い、斉藤環戦闘美少女の精神分析』(初出は太田出版、2000年)に、適当に依拠した雑文です。

【序】『シン・ゴジラ』を見て感じるのは、「こんな世界なんて、消えてなくなればいいのに!!!」という、ナウシカ時代から飽きるほど一貫している庵野監督の厭世観と、それに基づいた破壊衝動だ。今作が、永田町や丸の内を破壊し尽くすゴジラ野村萬斎をあて、「無機質な神」というイメージを被せてきたことは興味深い。なぜなら、劇中に印象的な小道具として使用された宮沢賢治春と修羅』は、濃厚に漂う無機物への関心(「わたくしといふ現象は /仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」)とともに、最愛の妹トシを奪った世界に対する絶望と恨み(『永訣の朝』)を、想起させるからである。いずれにせよ、こんなに強烈な厭世観と破壊衝動を持ち合わせていたら、この世界を生きることが堪らなく嫌で嫌で仕方なくなるに、違いないだろう。

【破】ここで敢えて、こうした庵野監督の感覚は、「んなこと言ってないでさー、さっさと現実と折り合いつけようよ?」と言われかねない「子ども」じみたものである、と言ってしまおう。しかし人によっては、そうした感覚にどうしても折り合いをつけることができない場合があるのも、当然である(そのことを非難したり断罪する意図は全く無いということは、明記しておく)。その時に取れる戦法は何か。その1つが、自分の願望に従った虚構の世界を作り出しその住人になることと、現実社会において一人の社会人でいることを難なく切り換えられるようにすること、すなわち二つの乖離した主体として生きる「多重見当識」という状態である。これは、精神科医でアニメ関連の著作を色々書かれる斉藤環出世作戦闘美少女の精神分析』に、キーワードとして登場する概念だ。

斉藤によれば、「多重見当識」は、没入しているものが独立した世界をなし、現実世界とは区別されていて、二つの世界をやすやす行き来できる状態であり、例えば「写真が趣味でカメラを何個も持っている」とか「神の国を信じて毎週教会へ行っています」といったこととは、全く次元が違う。写真好きの一眼レフを壊せば恐らく1週間は口をきいてもらえないし、敬虔なキリスト教徒は「イエス萌え」なんて絶対に言わないが、どうもそれとは違う種類の人間がいる、というのである。それがどういうことなのか、端的に示すものとして、『戦闘美少女の精神分析』はある男性の言葉を紹介する。

「~ちゃん萌え」と言って「抜い」ておきながらも、その作品やキャラクターを完全に突き放した視点に立つことが同時にできなければ、おたくなんてやってらんないんです。(p.64)

おたくの多くは虚構にはまる自分自身をも客観視でき、かつそれをネタにして遊んでいるので、嫌悪感を抱かれる事すらもネタにできるんですよ(p.67)

熱しつつ醒め、虚構と現実をやすやす行き来する、「多重見当識」。こうした生き方を「革命の不可能性、社会の不可能性を反転させたもの」として高く評価する人もいるが、それについては触れない(また、恐らく現代日本のアニメ好きだけに特有の現象ではないだろう )。

 

【急】さて、この『バンビ、ゴジラに会う』である。この作品の解釈として妥当なものは、「60年代のカウンター・カルチャーでカルト的ヒーローになったゴジラが、世界的に知られ、誰からも愛されるディズニーのキャラクターを踏み潰すという、ナンセンスでロックな一発ギャグ」といった類であろう(以下、参考記事)

「バンビを踏み潰したい」という願望&実践、という時点で、多くの人が振り落とされるだろう……。が、私が引っかかったのは「単にバンビを踏み潰すだけなら、テロップを作中で流す必要は無いのではないか?」という点だった。つまり、冒頭から流れ続けるテロップは、踏み潰されたバンビと同じくらい意味があるのでは、ということである。
そこで、テロップの中身を見ると、一応「原作」「脚本」「振付」「バンビの衣装」「製作」といったクレジットが出るが、全て、本作の監督であるマーヴ・ニューランドの名前になっている。極め付けは「マーヴ・ニューランドの製作:ニューランド夫妻 marv newland produced by mr. &mrs. newland」で、こうなると、どこまで本気にしていいのかわからない。そうこうしているうちにバンビが踏み潰され、東京に対する謝辞によって作品は締めくくられる(we gratefully acknowledge the city of tokyo, for their help in obtaining godzilla for this film)。「これは単なるナンセンスギャグですよ、わかってやってるんですよ」という言い訳以外、いったいなんであろうか。

言い訳をしながら、のどかな平原で草を食むバンビを、見事に殺す。しかもその悲劇は、一切の予兆無しに右足一本で潰すという、最も純化された形の破壊にほかならない。つまりこの作品は、「可憐なバンビを踏みつぶしたい」という破壊衝動を極めて純化させて進む映像と、現実世界の観客に向けられた客観的かつ自嘲的なエクスキューズが、極めて自然に併存しているのである。この点に、「多重見当識」に通ずる感覚が、あるように思えてならない。それを、たった90秒かつ最小の画面情報量で見事に表現しきっているということも合わせ、拭い難い鮮烈な印象を覚えた。そしてもし、私の考えていることが少しでも監督の意図に合致するならば、こんなに完璧でスマートな作品は見たことがない。本気で伝えたいことを伝えるのに90分も費やす必要はない、全ての映画は90秒で充分だ。

 

以下余談(ここまで読んで下さった方がいたら、本当にありがとうございます…)

・私自身は、『シン・ゴジラ』を11回見て、庵野監督を始めとする製作スタッフのインタビューとか、色んな人の感想を読むのが好きな人間だが、『シン・ゴジラ』の二次創作活動については、作るどころか考えることすら、殆ど興味がない。さらに言えば、そもそも現実的に結ばれる可能性が無い対象について妄想するという体験は、ほとんどしてこなかった(「隣のクラスの○○くんと付き合ったら、どんなデートをするんだろう?」みたいなことを考える、ごく通俗的な女の子だった)。ただ、「もし『ポケモン版シンゴジラ』を作るとしたら、一体どういうコンセプトで誰が撮ったら面白い作品になるんだろう? 予算は幾らで、興収はどのくらい見込めるだろう?」みたいなことは楽しんで妄想しちゃうので、強いて言うなら「プロジェクト萌え」がある、のかな……?

・下記は、「多重見当識」を端的に定義する斉藤の言葉。「想像の領域においては、あらゆる人間が倒錯者たる権利を持つ」という指摘には心から賛同することを、改めて。

したがって私は、おたくにおいて決定的であるのは、想像的な倒錯傾向と日常における「健常な」セクシュアリティとの乖離ではないかと考えている(この意味からも、宮崎勤は完全に特殊な例だ)。……ここではむしろ、性的倒錯はまったく問題とならない。なぜなら想像の領域においては、あらゆる人間が倒錯者たる権利を持つからである(pp.53-54)

 

【追記】twitterで以前、竹熊健太郎さんがご紹介されていたフィギュア。破壊衝動のみを取り出したら普通は以下のような作品になるわけで、だからこそ、テロップを付けていることが面白く感じます。

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