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忘れるためのなぐりがき

短編小説や、映画・アニメの感想を書いています。

とっても雑な幾原邦彦論(@とっても雑なテクスト論)

現実世界の革命を志向する幾原監督(美少女アニメを手段として突き放すクール)に、惹かれる。

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12月初めに行われた朝カル講座を受講した限り、現在52歳の監督の心には、意外にも(?)学生運動とその挫折があった。

「苦しんでいる人に、何ができるか」という問いに対し、「革命以外の方法で、現実を変える方法は何か」が、監督のテーマなんだろう(地下鉄サリン事件に敏感に反応したのも、恐らくこうした関心からだろう)。
監督のアンサーは、「たとえ社会を変えることは叶わなくても、誰かのために命がけの自己犠牲を払えば、相手のその後の人生は変えることができ、しかも相手はそのことを絶対に忘れない」。一対多ではなく、一対一を志向しよう、というのが、監督が出した答えなのだろう。

さて、このアンサーのポイントは、後半にあると考える。
「相手のその後の人生は変えることができ、しかも相手はそのことを絶対に忘れない」、つまり、思いは必ず報われるってことを、幾原監督は信じたいと思っているのだ。
その証拠に、アンシー(『少女革命ウテナ』)も、陽毬(『輪るピングドラム』)も、ツインテールちゃん(『ユリ熊嵐』)も、自己犠牲を発揮して退場していったキャラクターたちによって人生が変わり、しかも彼らを忘れない(たとえ他の人たち全てが忘れたとしても!)、という描写がされる。
これには少し問題がある。

自己犠牲を払う相手が、行為を受け入れてくれることが大前提となっている。
すなわち、完全に見返りの無い行為にはなりきれず、承認欲求は依然としてあるのだ。

ちょっと甘い感じがする。
「きちんと報われてハッピーエンド」は、娯楽としては正解かもしれないが、 「報われるかどうかわからないけど、それでも相手に何かする」っていうのが、最高のかっこよさじゃないのか。
だから、私自身の趣味からすれば、ピンドラ最終話は列車での運命乗り換えシーンで終わるべきであり、エンドロール中のぬいぐるみ号泣シーンや、エンドロール後モノローグ(「忘れないよ絶対に、ずっとずっと」)は、無粋で要らない。

……と、ここまで書いて、はい、全て近親憎悪です。
監督のような、「何か生れるって信じて、自分の命を半分こにして相手に分け与えようぜ!!!」っていう、良くも悪くも図々しく、そして愛おしい「自己犠牲」(あくまでカッコつき)、本音では大好き。
大事なのは、あくまで行動に踏み出すか否かだろう。
エゴ交じりのグレーな動機であったとしても、目の前の人に、自分を差し出すということ。

幾原作品を貫く倫理は、もうひと段階、化ける余地があると思う。
それが私の趣味に適うものか、あるいはぶっ飛んだモノになるかは、神のみぞ知る。
なかなか寡作な方だけど、次回作を見られる日が来ることを、心から楽しみにしている。