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忘れるためのなぐりがき

短編小説や、映画・アニメの感想を書いています。

雑な感想『ミュージアム』:どうしてこんなにモヤモヤするんだ! ※ネタバレあり

※ネタバレあります。ご注意ください。

毎度恒例、原作未読でたった1回鑑賞しただけの雑な映画感想書き散らしです。
今回は『ミュージアム』です。この2か月、予告編だけは映画館で数回見て「わー和製セブンだな~」って感じで、気になってはいました。早速、映画館へ足を運びました。

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【解説】過激な描写と緊迫のストーリー展開で人気を博す巴亮介の人気サイコスリラー漫画を、これが初タッグとなる小栗旬主演×大友啓史監督により実写映画化。雨の日だけに起こる猟奇殺人事件を追う刑事の沢村久志。犯行現場に残された謎のメモや、見つけられることを前提としたかのような死体から、カエルのマスクを被った犯人像が浮かび上がる。通称・カエル男と呼ばれるようになった犯人を追い詰めていく沢村だったが、カエル男の仕組んだ残酷な罠にはまり、絶望的な状況に追い込まれてしまう。主人公・沢村役の小栗、沢村の妻を演じる尾野真千子はじめ、野村周平大森南朋ら豪華キャストが共演。

ミュージアム : 作品情報 - 映画.com

 結論から言うと、以下3つの理由で、凄くモヤモヤした気分で映画館を後にしました。

①:「全年齢向け」で許されるグロ描写なのか?
②:ラストの描写をあの位置に持ってくるシナリオ上の必然性が無いのではないか? なぜこんな終わり方に?
③:つまり、この映画は何がしたかったんだ?

※「とりあえず3つと言っとけば説得力あるだろ」的な、かなりアバウトな3つです。

①:「全年齢向け」で許されるグロ描写なのか?
直接的なプロセス(殺人描写)は映らないですが、今作は猟奇殺人死体が、ガンガン出てきます。とはいえ、人体の切断面ちゅどーん!とか、血がぼたぼた落ちてる……ではなく、切断された死体のきれいな側面だとか、全身凍った死体だとか、割と綺麗な(“お人形さんみたいな”)死体です。私自身は、グロ耐性はそこそこあるので、最後の妻子の生首描写は「おいおい中学生の文化祭のお化け屋敷かよ!」とつい笑ってしまいました(正確には生首フェイクでしたし、「フェイクですよ!」というフォローはすぐに入りました)。
……というように、やっぱりある程度言い訳がないとダメなように思える描写が、全年齢向けの作品でガンガン出てきちゃうんですよね。監督自身も、年齢制限について以下のように語っています。

原作を読むと、どう作っても少なくともR-15だろうと予想していたんですね。プロダクションの間も、一切そういう方向では手抜きをしてませんから。でも編集したものを映倫へ見せたら、結果的に「G」(すべての年齢が鑑賞できる)だったんです。「えっ、どういうこと!?」と思いました(笑)

映画『ミュージアム』大友啓史監督にインタビュー。「マンガと映画は違う、お互いのオリジナルを尊重したい」|ギズモード・ジャパン

というわけで、個人的には、「全年齢向けになっちゃうような中途半端な猟奇描写のせいで、グロ好きにもグロ苦手な人にとっても不幸な作品になってしまったのではないか」と思いました。さらに言えば、この作品の売りを考えた場合「線引きがあった方が、かえって自由な猟奇表現が実現し、作品のカロリーがあがったのではないか?」とさえ思います。

②:ラストの描写をあの位置に持ってくるシナリオ上の必然性が無いのではないか?なぜこんな終わり方に?
今作のラストシーンは、「仕事を休職した?(辞めた?)主人公が家族愛を取り戻し、息子の運動会に参加して奥さんと一緒に息子を応援する」というものです。が、主人公の主観的な幸福とは裏腹に、主人公の手持ちカメラには、カエル男と同じ光線過敏症を発症したと思しき息子が映り込んでいました……。
「息子が、事件のトラウマからカエル男と同じ病気を発症する」……という展開自体もどうかと思いますが、それならそれで、「息子の病気に気付くも、『今度こそ家族をきちんと愛し、息子の病気を治してやる!』と意気込む小栗旬の顔のアップ」とかで終わっても良かったと思うんですよ。だって今作は、それまで「仕事人間だった小栗旬が、カエル男事件を解決して、家族への愛を取り戻す」っていう筋で進んでいたんですから。その筋を外さない、わかりやすい終わり方であったら、ヌケがよかったと思います。なのに、なんだこの終わり方は……?!?
人によっては、「いやいやいや、たとえラストカットが息子の病気発症で終わろうと、きっと小栗パパは家族一丸で息子の病気と闘うに違いない!!!」っていう反論があるかもしれません。……ですが、だったら猶更、私の案の方がわかりやすくないですか?
ラストをこのような組み立て方にしたのは、監督なり誰かなりの意図があると思います(③に続く)。

③:つまり、この映画は何がしたかったんだ?
ここで、監督インタビューとして公開された記事の引用をご紹介します。

日常暮らしていると、さすがに殺人事件に遭遇することは中々ないと思うんですが、もっと日常レベルのもの、それこそ、普通の人がTwitterで悪気なく書いた一言が見ず知らずの誰かに晒されることによって突然炎上してしまうとか。今の時代って、行き場のない悪意みたいなものが、矛先を向けるターゲットを探してウロウロしているような気がするんですよね。今回の原作は、そういった「日常に潜む悪意」を表現するにはぴったりな題材だと思ったんです。

「いまは"行き場のない悪意"がウロウロしている時代」 - 映画 『ミュージアム』大友啓史監督インタビュー (1/2)

原作については、もう少し詳しく語っています。

単にフィクションに影響されているだけではなく、その枠におさまらないような、リアルな世の中、今の日本の社会で起きている出来事とつながっているような不気味さを感じました。今の社会を生きている日本人にとって、どこか身につまされるというか、変な表現になりますが「手が届いてしまう恐怖」というか。

映画『ミュージアム』大友啓史監督にインタビュー。「マンガと映画は違う、お互いのオリジナルを尊重したい」|ギズモード・ジャパン

つまり、私たちにとって他人事じゃない悪意(の末の狂気)に原作の魅力を感じ、映画化を引き受けたということでしょうか。
映画化に際して拘られたポイントは幾つもあったようですが、私が気になったのは、以下の発言でした。

ミュージアム』みたいな映画が上映される世の中というのはやっぱり平和でなければいけないし、見終わったあとに「いやあ、怖かったねー」とか「やばかったね、この映画!」とか「日常では体験できないハラハラ・ドキドキを体験できたよね」とか思いつつも、こういうことが現実に起きたら本当に危ないということをお客さんは冷静に理解していくわけですよね。だから、嘘と真の線引きができる理性というのは必要だと思います。

映画『ミュージアム』大友啓史監督にインタビュー。「マンガと映画は違う、お互いのオリジナルを尊重したい」|ギズモード・ジャパン

カエル男が決して創作の中だけのキャラクターだけでは無くね、現代社会にはこういった事もあり得るんじゃないかという、そういったメッセージを伝えたい気持ちがあった

『ミュージアム』大友啓史監督インタビュー「これでR指定無し。映倫の基準は興味深いね」 [T-SITE]

つまり、「これは誰もが安心して楽しめる嘘です!(≒フィクション、娯楽映画、エンターテイメント云々、言葉はなんでもいいです)」ではなく、嘘/本当の線引きをお客さんの方でやって下さいと強いるような、線引きギリギリのことをやりたかったということでしょうか。だからこそ、(私が考えたような)わかりやすい「パパが改心してこれから頑張る決意をするモノ」で落とすのではなく、安易な決着を与えてくれないラストだったんだと思います。

さて、以上が3つのモヤモヤでした。ここからは、私のさらに勝手な感想です。

原作の結末がどういうものかわからないですが、カエル男が象徴する悪意というのは、この映画を見なくたって私たちは日頃知っているもの、ということですよね。監督は原作の魅力がそこだと思ったんですよね。「こういうことが現実に起きたら本当に危ない」じゃなくて、こういう悪意によって起きた不幸を、みんな毎日ニュースやtwitter2ちゃんねるで知っています(あるいは、たまたま近くにいた人のたまたま不機嫌な状態の犠牲になるとか)。そういう社会に、私たちは生きています。

こうした状況に対し、「悪意の連鎖を濃縮還元して、映画に仕立ててみました!」というのが、今作です。悪意が悪意のままシコリのように残る映画があることは全然OKで、例えば今年の映画だと、『ディストラクション・ベイビーズ』とか『葛城事件』の決着の仕方を想起します。が、この2作は悪意の主体が私たちの共感をポーンと通り越してしまった“超絶悪意”(すなわち、「悪意の完全なるファンタジー」)であるのに対し、今作には『ディストラクション・ベイビーズ』のように地方の商店街で長回しで通りすがりの人を殴りつけていく柳楽くんも、『葛城事件』のように息子の嫁にカラダを迫る最低のクズ親父も登場しません。ラストカットに映るのは、中途半端に猟奇的な悪意のせいで悪意を継承してしまった子どもです。つまり、日ごろニュースやtwitter2ちゃんねるでイヤな思いをして、ちょっと気分が悪くなって、たまたま近くにいた人や、twitterで流れてきた投稿に、悪意のある言動をしてしまう私たちそのものです(自戒も含めて、私たちそのものです)。

つまり、この映画は、私たちの鏡ということです。

「日常的な悪意のサンプルを見せるので、お客様はくれぐれも、身だしなみに気を付けてください……」

今作のこうしたスタンスが、日ごろ悪意の加害者である私自身にとって、極めて不快でモヤモヤする鑑賞後感になったと思いました。そして、逆説的ではありますが、以下のようなことを思いました。

“私がカエル男であることは知っている。だからこそ、息子の病気を家族一丸となって治す決意をする小栗パパの表情を見せて。身だしなみを教えて……。”

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R指定あり/なし」、「フィクションっぽく落とす/フィクションらしい決着がない」、といった線引きに対する立ち位置とその妥当性、今作はコレで良かったんだろうか?……「R指定」やフィクションの意味、ひいては「なんのためにあるのか?」ということを、考えたくなる作品でした。

「こうした線引きへの問いこそ、監督がやりたかったことなのかもしれません」と言えればよいのですが、ネット上の監督インタビューを漁る限り「映倫の審査にびっくりした」だの、「(ラストの)あのシーンは脚本を書いているうちに思いついて入れて、自分でも「これはいけるだろ」と思った(笑)」だの、私の関心に対する明確な答えはないようです。