忘れるためのなぐりがき

短編小説や、映画・アニメの感想を書いています。

自作短編「芸術試論」

芸術家が、時に反体制の危険を冒してまで「個人」を表現するために芸術をやるようになったのは、実はここ数百年の出来事であり、それまでは寺院王侯貴族のため、すなわち体制のために、芸術は作られたのであった。
 
そしてまた、今日の芸術家が所与の絶対条件と信じている「個人」というものも、実は「人民の人民による人民のための社会」をやるために体制が作り出した幻想であり、芸術家が自由で奇抜な個人を表現しようとすればするほど、すなわちコマーシャリズムとダイバァシティを重んじる現代の社会に喜々として貢献するに等しい。
 
この意味において、ロマン派も、印象派も、前衛も、ボウイも、真の意味で体制への服従を免れ得たことはかつてなかった。こうした先達の無様な敗北が、ヴェネツィアのヴィエンナーレやバーゼルのアートフェアーに甘美なシャンパン雨を注いで止まないということは、特記するまでもなかろう。
 
では、我々が真の意味で芸術のための芸術をやる道は、有史以来の人類が悉く失敗した如く、鎖されているのだろうか。
 
そうではない、と私は思ふ。
 
真実の芸術を達成し得るには、体制、すなわち社会、すなわち人が生きるうえで如何にしても欠かすことのできない他人との融通から完全に独立し、一切合切を棄てることである。
 
まずは人格を棄てよ。貴殿が己と思ふその己とは、すべて体制が作り出したマヤカシに過ぎない。
 
次に他者からの毀誉褒貶を棄てよ。「なんかよくわかんないけどォー、アタシ感動しちゃったかもー」などという呟きも含め、構成員の認知に捉えられることは、すなわち社会の網の目に絡め取られたことに等しい。
 
全くのオリジナリティがない作品を、未来永劫誰にも気付かれることなく完成させることができた時、初めて他のどの言葉、どの社会機能、どの存在にも置き換えのできない、本当の芸術が誕生するのである。
 
それが何時の出来事になるか、それとも既に偉大な篤志によって密かに実行され得たのかは、芸術の女神を以てしても、永遠に知ることはできない。なぜなら彼女もまた、遠いギリシアの昔にアテナイ人がポリス社会を支えるために生み出した、甚だ体制的な人格に過ぎないからである。